自分のなかにある自分ではないもの 4

スピリチュアル界隈では


モラッた とか ツイテきた


のような表現もあるようですが

私にはよくわからないので

そういう意味の話ではありません と前置きです


誰かの相談に乗っていたら

相手の感情が分かり過ぎて

自分の方が落ち込んでしまう

こういうタイプの方は

とにかく生きにくいと訴える


相手の感情なのか

自分の感情なのか分からない

自分が曖昧になってしまって

他人と自分の境目がない

心理的な無境界状態と言っても良い


例えばこれはこんなことに似ているかもしれない


乳幼児健診で赤ちゃんが一人泣き出すと

今ままで機嫌がよかった赤ちゃんが泣き出し

検診ルームが鳴き声の嵐になる

ひとりがぐずっている から みんながぐずっている

検診ルーム が ぐずるルーム になる


乳児は「自分」という存在が確立されていない

自分と自分以外がよくわからないのではないか

自分の感情なのか、誰かの感情なのか区別がつかないので泣く

あるいは

他者の感情の真似をすることで理解しようとする共感の原型

とも言われている


が・・・


いずれにしても 他者が主体


自分ではない誰かの感情を感じて

あたかも自分の感情と勘違いしてしまうのは

共感 ではなく 同感・諒解・迎合の類である


自分が主体ではなく 相手が主体

相手になってしまっている

観客席で見ていたハズが気がついたら

舞台でスポットライトを浴びて熱演している

当の本人の気持ちを奪い取っているかもしれないので

相手も迷惑ということもある


あなたは 俳優なのか観客なのか どちらなのだろう


ちなみに心理カウンセラーは共感的理解に努める

クライアントの感情を理解する努力は惜しまないが

クライアントの感情を奪って自分のモノにはしない

例えクライアントの話で自分の気持ちが揺さぶられても

揺さぶらるそのものにドップリ浸かって

それになってしまってはマズイ

カウンセリングにならない

「鏡になる」は同感することではなく

理解したことを伝えることと思っている


エネルギーのことはわかってないので

相手のナニカを "モラう"現象を

どう捉えるかは議論できる立場でなないが


自分のなかに入ってきた自分ではないものに

自分が支配されがちなタイプであるなら

自分は他人の気持ちに左右される傾向があると

自覚しておいた方が

お互いの平和のためには良いことになる


イワユル・・・

依存関係が成り立つ可能性もある


自分が何とかしなければならないことを

目の前の人が代わりにしてくれる

目の前の人ができないことを

してあげる素晴らしい私を維持できる関係性


いつから自分で自分を生きるのだろう・・・


自分を生きていくとはどんなことかと迷ったら

とりあえず話す言葉に主語を入れて話してみると

面白いことに気づいたりする


相手の感情をモラう人は

主語の無い話し方をしがちになる


私なのか、誰かなのか

私の予測なのか、本当の誰の気持ちなのか

事実なのか、期待なのか


曖昧になっているからなのか分からないが

主語がない話し方をする

自分のなかに入ってきた自分ではないもの

区別が難しくなっている気がする


○○が入ってきたからから××なの・・・

あの人は△△△の気持ちを持っていて大変になっている


それはどこまでが事実?

どこからが自分の予測?

どれが自分の期待?


全部不思議なものを

原因にすればいいというものでもなく

そういうタイプと自覚も必要ではなかろうかと

思うワケです